しろいろの日記

特にこれといって面白くもない日常やモノの見方や考え方を淡々と文章にしてみる

理想の相手とは2

この前は相手がどうあって欲しいかという観点でいろいろと書いたので、今度は自分がどんなものなのかという角度からのアプロ―チ。なんだかんだいって私は、周りから頼られることが少なくない。しっかりしているように見られることは多いような気がする。でも表に出さないようにはしているが、根本的には自分に自信がなくて言いたいことはほとんど飲み込んでしまうことが多い。自分なんかの意見よりも相手の意見の方がいいに決まってるという謎の決めつけによってそのような判断になっているようだが、改めて書いてみるとなんでそんな判断をしているのか謎だ。言いたいことを飲み込むことも多いが、本当に誰も前に出なくなった時には前衛として前に出ることはできるようなスキルは身についている。これは昔からの環境のせいもあるとは思うが、人前に立とうとしたらなんだかんだ言ってどうにかすることが出来る程度の能力はどういうわけか身についてしまっているのだ。しかし、本来の私というものは、内向的であり、自信がなく、劣等感の塊であることは間違いない。だから、というわけではないが気質として前衛ではなくて後衛であるように思っている。どちらかというと自分自身が率先して動き回って何かを行うというよりも、動き回る人の様子をよく見てそれを補佐する方が性に合っていると思うのである。前衛もたまにしてしまうような中途半端なステータスであるがゆえに昔から器用貧乏感が拭えないのかもしれない。そのまま伸びていけばオールラウンダーになれるのかもしれないが、そこまでの大きな能力は自分の中に眠ってはいないと思う。日常の生活の中でも、似たようなことが言えて家の中でも偉そうにしたり、何かを自ら発案して盛り上げていく、というようなことは苦手だ。同じような日常を同じように過ごしていく方が得意ではある。対人関係においても、どちらかというと話を聞いて相槌を打っている方が性に合っているし、アクションを起こす側よりもカバーする側の方が間違いなくうまくこなせる。なんというか、抽象的な感じの表現になってしまうが、自分よりも高貴な誰かに仕える方がいろんな効率は良くなるだろうし、個人的な満足感という観点においてもその方がいい気がする。ドライバーよりもメカニック。姫よりも執事という感じ。しかし、誰かに仕える人生はそこそこ疲れるのは間違いない。自分としては疲れない人生を生きたいところではある。これまでの人生、負けじ魂ともいうべく挑戦することをあきらめない正確なせいで、自らが嫌いな分野へと熱心に打ち込んできてしまっていることもあり、前述したような負荷がかかるスキルもつけることが出来てはいるが無駄に苦労している人生を歩んできたのは間違いない。おそらくそういう点もあるから人生今まで自分の嫌いなものに対する努力をしてきて居ない人を見ると何とも言えない、羨ましくも侮蔑したくなるような何とも言えない感情がわいてくるのかもしれない。話を戻して、それじゃあ疲れない、苦労しない人生ってどんなものだろうと考えてみると、支えあえる人生なのかなーと思い至った。お互いにカバーし、たまに前衛と後衛を交代しながら、相手の苦労がわかって尊重しあうことが出来る。心配することなく背中を預けることが出来る関係。あらゆる面でそういう関係でいられる相手。多分そんな相手がちょうどいいのかもしれない。自分と似たようなタイプである。理想を言うと多分そんな感じになる。自分と同等か、それ以上のスペックを欲しているのだと思う。でも、高かったら高かったで劣等感に悩まされることになるのは目に見えているので、高すぎず低すぎずという何ともストライクゾーンが狭い感じ。では、自分のコピーが居たらそれでいいのか?という話になるとまた話が変わって、同一の弱点を持っているのは問題では。という風に余計な、何とも贅沢なことを考えてしまう。自分の弱点は間違いなく体の弱さと意思の弱さであるとおもうので、その部分を補えるような要素を持っていてもらえるとありがたい。というより、ほとんどの人が自分よりはその二つは強いと思うので問題はほとんどない気はする。なんだかんだで書きなぐってきたが、見えてきた点をまとめると、自分と同等以上のスペックで、自分に似た誰かに仕えることで能力を発揮するタイプ、という感じ。後半は考慮しなくてもいいかなと思い省略。そんな感じにまとまった。